『逆シャア』における極まった富野演出

改めて見返すと、意外と作画の力というものに気付かされるのが『逆襲のシャア』だ。

一概には言えないが基本的に富野作品は作画で押し切るという演出論で作られていないため、毎回映像面には期待しないものなのだが、この作品ではとにかく戦闘シーンの連続である。

それがきちんと本筋とリンクし、ドラマと共に進行していく筋立てになっているのだから見事なものだと思う。

戦闘描写を物語と別個のものとして扱いがちな通常のロボットアニメとは一線を画している。

これならメカニックにあまり興味が行かない人間でも飽きることなく最後まで見続けられるのではないだろうか。

作品の構造としては、一連の戦争劇に、本作のトラブルメーカーであるクェス・パラヤの一挙手一投足が影響していくことで混沌化し、それぞれのキャラクターが悲惨な結末に向かっていく、大まかにはそう解釈していいと思う。

話の流れとしては至って淡々と進んでいくので、純粋にキャラを追っていける、キャラクターありきのマンガ映画だと言えるかもしれない。

作中で描かれるアムロ、シャアを始めとした男性キャラの情けなさ(特に異性に対しての対応)はこれでもかと言うくらい執拗に描かれている。

男性性の英雄主義を否定する富野作品においてはもはやおなじみだが、それが露骨なまでに描かれる本作はある意味集大成とも言えるだろう。

平たく言えば「MSは動かせても、女性の操縦は上手く出来ないオトコ共の不恰好な生き様」と言ったところか。


それでは今回再見して、自分なりにこれぞ富野演出といったポイントを新たに2つほど見つけたので紹介する。




スィートウォーターに帰還したシャアが自宅(?)で酒を片手にナナイと二人きりで談笑するシーン(間に一年戦争時のララァ絶命の回想を挟んだ、例の梅津泰臣作画の一連のシーンだが)、

シャアはナナイに女性性(母性)を盾に皮肉を言われ、自分の男としての弱さを突かれる。

そこでシャアはナナイに小言を言われた事に対する報復をするのだが、その不服を示す描写が台詞ではなく、演出的サインとして潜まれている。

ナナイの胸元に酒で冷えたグラスを押し当てる、ナナイは驚き一瞬喘ぎ声のような声を漏らす、この若干セクハラじみた行動にささやかなシャアの苛立ちが見て取れる。

表面上は穏やかに努めているシャアが、不意に内心を露呈してしまう場面―――シャアの幼稚性という意味でも、またキャラクター設計としても深みを与えている。

抜かりのない、手が込んでいる描写だ。




もう一つはラスト前、シャアを強く想うクェスに嫉妬したギュネイが「シャアがこの戦争を起こしたのは、(昔の女である)ララァアムロに取られたからだ」とぶちまける。

その場では相手にしないクェスだが、やはり訝しく思い出撃前のシャアに

「あたしはララァの身代わりなんですか?」と詰問するのだ。シャアは一瞬困惑するも、何とか有耶無耶にしてクェスを言いくるめる。

その後シャアはララァの件をクェスに吹聴したギュネイを掴まえてきつく諌める、その時の会話


シャア「私がクェスに手を出すとどうして考えるのだ?」

ギュネイ「自分が・・・でありますか?」

シャア「クェスはナナイの命令でαに乗った、慣れるまで守ってやれ。」

ギュネイ「は、はい・・・」

シャア「私はネオジオンの再建と打倒アムロ以外興味がない、ナナイは私に優しいしな」

ギュネイ「は・・・はぁ・・・」


このシーン、必死になってとぼけるギュネイがとても可笑しい。山寺宏一の焦りがちな演技もキャラへの解釈が行き届いており、功を奏している。

単に口を滑らせたことによる災難と言っても、これはなかなかリアリティがある。しかもアニメでやる分にはかなりテクニカルではないか。

俗に「富野演出は実写的である」と言われる所以も、これら台詞的な描写によるものなのかもしれない。

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