創作とはオナニーショーである。

創作とは実に難しいものだとつくづく思う。僕は“物語”を書くのが本当に不得手である。
エッセーや雑記の類はこれまでにも書いてきたし、出来に関しても多少の自負心があった。
だから、物語も何とか書けるであろうという自惚れがあり、実は今の今まで一度も書いた事が無かった。
だが、実際やってみると本当に書けないものである。いや、書けないというのは間違っているだろう。
“作り出せない”のだ。大まかな構想が、ああしてこうしてそうなる―。
まずそういうものを頭から捻り出す事から“物語”を“作る”事は始まるのだが、まずそこで僕はアウトである。
“書く”は“作る”のプロセスに含まれていて、かつ最後のステップであるから、いきなり行う事はできない。
仮にできたとしても、少なくともそれで“物語”として面白い作品は絶対に為し得ない。
これは僕の独断に基づく持論であり、ポリシーでもある。


勿論、そういうプロセスさえたどっていけば必ずしも面白い物語が作れるという訳ではない。
前述した事はあくまでも基本であり、結局面白い物語に必要な要素は唯一無二の独創性であると思う。
しかし、それだけで物語を作るのは非常に困難であり、不可能に近い。
そこで既創性を織り混ぜる必要があるのだが、それは作り手にとって本当に合点が行かない行為なのである。
言ってみれば既創性とは諸刃の剣であり非常に役立つ要素ではあるが、
頼りすぎれば目新しいもののない詰まらない作品に仕上がってしまう危険をはらんでいる。
作品にこの既創性の介入をどこまで許すかというサジ加減が実に難しい。僕の作品作りの悩みはここにもある。


こう書いていていつしか僕の文章の中で“物語=作品”に置き換えられていった様に結局
「製作物というものにはオリジナリティーを内包させなければならない」というのが僕の主張になってくるのだろう。
ただ必ずしもオリジナリティー皆無の製作物が詰まらない、あってはならないというものでもないのである。
僕個人がオリジナリティー固執しているだけで、俗に言う“王道”や“オーソドックス”
という言葉が存在するようにそれもアリである。ただ、そんなもの世の中には腐る程溢れかえっているのだ。
さらに量産して何になろう。やはり創作とはオナニーショーである。恥ずかしがらずにパンツは脱ぐべきだ。


2005/1/28/16:13 僕のメールマガジンより