所詮は餓鬼の戯言でショー?

SHIRO様のコメントにレスをしていたら
過去に自分が友人達とメールでこんなやりとりをしていたことを思い出した
友人2人には失礼だが
今になって読み返すとどれも吹飯ものだ
3人が3人共、本当に青かったなと思う(もちろん僕は今も青いが)



「娯楽そのものは作品にはなり得ない。ただ、娯楽なしでは作品はなり得ない。」


月イチで一本上げる事を自身のノルマにしているので、まぁ今月も配信します。
反響が悪いのは重々承知ですが、ただ純粋にモノ書きの真似事に興じたい僕の思念を汲んで頂けたら幸いです、
駄文ですが。


娯楽というものについて考えてみたいと思った。ここでは作品の中のいわば一つの要素としてとらえた娯楽である。
今、僕は非常に馬鹿な事を書いてるな、と思う。そもそも作品と名のつくもの全てが娯楽なんじゃないか…
いや、というより世間一般的に作品そのものは娯楽だと定義付けられているような節がある様に感じる。
僕個人の見解ではそうは思わない節があるので、尚もこの馬鹿な考えを変えない。
現代人は娯楽という要素でしか作品を語らないように見受けられるからだと思う。
別に難しいからとかじゃなくて、論理的に考察する必要性を欠いてまで作品に触れようとする気がないということだ。
大衆意識を持ち過ぎている。僕にはどうしても作品を娯楽そのものとしてとらえる事が出来ない。
別に僕がナ―バスだからという訳でもなく、元々作品とはそういうものだと思っているからだ。
小説にしろ映画にしろアニメにしろ、娯楽を持ち合わせてはいるが、決してそれだけに留まっていないということ。
たとえどんな陳腐な作品にも言える事だと思う、現代にはそういう面を軽視する傾向にある気がしてならない。
何でも娯楽に当てはめたがるからだ。営利主義の横行する今の世には、そういった現代人のみをターゲットに
作られたとても作品とは呼べない代物は増長の一途をたどり、残念ながらそれに支配されきってしまっているジャンルもある。


近い将来、作品が作品として産まれ得ない日がやって来るかもしれない。
そうなったら日本文化はもう終わりだろう。消費者としての我々現代人による、
作品の上での正しい取捨選択が必要なのだ。本当に面白いモノというのを突き詰めて考えて欲しい。
営利的な作品などは存在の価値はない。自分達で蒔いた種は自分達で枯らすしかないのだから、
最悪の事態は免なければ。一消費者として、である。(2005/2/23/14:20、僕のメールマガジンより)




貴公のメルマガ、今日まで楽しみに見させてもらった。今まで一度も返信をしてない
ことに謝罪の意を表し、人生の経験が不足していることを晒すことは目に見えているのだが、「作品」についての稚拙な文でも御賞味戴きたい。


確かに「作品」は「娯楽」という要素でしか物語らぬ感がある。
いや、最早、「作品」の中に「娯楽」があり、それで「利益」を生むという
本来あるべき循環は崩れ、まず「営利」があって「娯楽」の中に「作品」があるというのは目に見えているだろう。


本来「作品」とは「営利」なくとも成り立つ物だった筈だ。
しかし現代は、やれ興行収入だの、やれ販売冊数だの、あくまでも
「利益」の上下を求めるものになってしまっている。
「数字」によってしか現代人は動かされなくなってしまった。


これが悪循環の根本だろう。「利益」を求めるが故に作品が疎かになり
本来進むべき道を外す。作品としての質は、だんだん落ちていく。
しかし、現代人は作品の質は見ない。あくまでも数字を見るのだ。
数字で表されたモノを評判で聞いて、数字で評価する。
その数字で評価されているもので作者にも誤解が生じ、「作品」の作者は自惚れ悔改めさせることを困難にしてしまうのだ。


まぁ、ここまで語っては何だが…上記の意見が合っているか、間違ってるかなんぞ、そんなことは、人それぞれだな…


稚拙な文かつ、途中から本論を外れる私の癖に付き合わせてしまって申し訳ない。
しかし、ここまで読んでくれたのなら素直に礼を言いたいと私は思う。(友人Aからのメールより)




久しぶりです。


「作品」についての定義ですが、私も作品のあり方はそうであってほしいと思います。
しかし、実際のところ、営利的な目的で作品を作っているところはあるわけです。
その側にとっての「作品」とは「利益を生む商品」でしかないんですね。
しかし、たとえ商品であれ、私たちはそれ作品として見る場合があるのではないでしょうか。
私は一時期ゲーム音楽に没頭していました。
たかがゲーム音楽
されどゲーム音楽
なんですね。
ゲームは「娯楽」です。その音楽も「娯楽」に違いはない。
高尚なクラシックの「作品」を聞く友人に嘲笑されたが、クラシック音楽ゲーム音楽の評価の視点は異なるわけで、
結論、「いいものはいい」という事で落ち着けば良いのである。だから、商品を商品として楽しむというより、
こだわりを捨てて、ただ面白いものを受け入れている。
つまり、評価できる商品は作品であるとみている場合が有る。
まあ、アイデンティティーと同じく、制作者、受け手が共に「作品」と認め得なければ作品ではないのだが。(友人Bからのメールより)