富野作品における『機動戦士ガンダムF91』の歴史的価値

機動戦士ガンダム逆襲のシャア』と『機動戦士ガンダムF91』を歴史的背景で語るとすれば、ちょうど富野作品が人間のエゴを剥き出しにするリアリスティックなドラマから
ナチュラルなストーリーに転換していく、過渡期でありターンニングポイントとなる作品群ということになる
これが双方2時間の映画として、非常に簡潔にまとまっているのが嬉しい
短時間に濃縮されているのに不可分を感じないというのは再視聴に耐えられる
ちなみに世に出ている『F91』の作品批評としては、『富野由悠季全仕事』でのアニメーター故・逢坂浩司氏のインタビューがベストだと思うので下に引用する


>『Vガンダム』は勿論大好きですが、富野作品の中では賛否両論(ファンの間だけかも知れませんが)のある『F91』が結構好きなんです。
>見終わった後に残る妙な感触、最後の絵の気持ち良さ、あのフィルムの持つ質感が「また見たい気分」を僕に起こさせるのです。
>そういえば、富野作品のあの独特の質感というのは、この『F91』からよりいっそう強くなってきたような気がします。
>あの妙に“ぬるり”とした肌合いは、意図して表現されたというよりも、
>自身の本能によって知らず知らずのうちに醸し出されたものだと思うのですが、他のフィルムではなかなか感じられる感触ではないですね。


F91』を見返すたびに思うのだが、物語の構造自体は至ってシンプルに作られている
シーブック方、セシリー方の家庭関係を交互に見せていくことで、富野なりの家族論の二律背反を暴いているはずだ
逆シャア』におけるアムロとシャアの関係を、富野個人のそれから単純に家族に置き換えているだけの様にも見えなくもない
とは言え、映画として一応筋が通っている(成立している)『逆シャア』とは異なり、初見だと作品構造的にかなりエキセントリックな印象を受ける
主に作中の最大の悪玉である鉄仮面(カロッゾ・ロナ)のキャラクターが少々作り込まれ過ぎている為だ
序盤登場から完全に物語の流れを食ってしまっていて、この作品をカルトと言わしめている大きな要因になっている
だがしかし、この映画には全篇に渡ってそれまでの富野作品にはないある種の“優しさ”がたちこめている
これ以降、ガンダムニュータイプ論やイデオンの輪廻転生などの観念的、精神的(ややもすると宗教的という言葉で一言に括れようか)な要素が薄くなり、
代わって家族や身体といった至って普遍的、有機的なテーマをより強く打ち出していった様に思えるのだ
富野作品においてそれらのテーマ部分の端緒が開けた記念碑的作品として、僕はこの『F91』に相当入れ込んでおり、現在も年に数回は見直している


作中ラスト、だだっ広い静かな宇宙空間で、ひとり浮遊しているセシリーをシーブックが抱える、(抱くのではない)あのエンディングの描写は凄く好きで、
今でも富野作品においてはベストの幕引きではないかと思っている(いや、ザブングルのラストも捨てがたいか・・・)